美術館で一枚の絵の前に立ったとき、なぜか目が離せなくなったこと、ありませんか?
言葉では説明できないのに、何かが胸の奥を静かに揺らしてくる、あの感覚。
原田マハさんの短編集『〈あの絵〉のまえで』は、まさにそういう瞬間を丁寧に掬い取ったような一冊です。
就活、恋愛、夢の挫折、悲しみ——傷ついた心を持つ女性たちが、1枚の絵をきっかけに、ほんの少し前を向いていく。そんな物語が6つ詰まっています。
この記事では、本の内容と私が特に好きだったエピソード、そして読んでほしい理由をお伝えします。
- 『〈あの絵〉のまえで』ってどんな本?
- 6つの物語と登場する絵・美術館
- 特に好きだった2つの物語
- 女性にこそ読んでほしい理由
- 読み終えたら美術館に行きたくなった
『〈あの絵〉のまえで』ってどんな本?

著者の原田マハさんは、美術を題材にした小説を数多く書いている作家です。
キュレーターとしてのキャリアも持ち、アートの世界を「物語」として描く筆致が多くの読者に愛されています。
この短編集も、その真骨頂とも言える一冊。
全部で6話、文庫本でも薄めのつくりなので、休日の午後に読み始めれば1〜2時間で読み終えられます。
忙しいけど読書はしたい、でも長編を読み切る自信がない。そんな方にもぴったりです。
そして、表紙がとにかく美しい。
グスタフ・クリムトの『オイゲニア・プリマフェージの肖像』が使われていて、鮮やかな花柄の衣をまとった女性が、静かな気品とともに佇んでいます。
6つの物語それぞれに、日本各地の美術館で実際に観られる名画が登場します。
実在する絵・実在する美術館が舞台になっているのが、この本の大きな魅力のひとつ。
読み終えた後に「あの美術館に行きたい」と自然と思えます。
6つの物語と登場する絵・美術館

各話の舞台となる美術館と絵を、簡単にご紹介します。
どれも心に何かを抱えた女性や夫婦が主人公で、それぞれの「あの絵」との出会いが転機になっていきます。
ひろしま美術館|ゴッホ『ドービニーの庭』
就職活動がうまくいかず、自信を失いかけている女子大生の物語。
自分のやりたいことや憧れに素直になる大切さと、母親の愛情を感じられる、静かで力強い一話です。
大原美術館|ピカソ『鳥籠』
今日からまさに、日本と海外の遠距離恋愛が始まろうとしているカップルの話。
ピカソの「鳥籠」から感じ取れる、「何にもとらわれずに自由に羽ばたける」というメッセージが強く響いてくる物語。
読みながら、岡山・倉敷の雰囲気も感じられます。
ポーラ美術館|セザンヌ『砂糖壺、梨とテーブルクロス』
あることがきっかけで、絵を描くことをやめてしまった女性の物語。
箱根の森の中に佇むポーラ美術館と、セザンヌの静物画が静かに響き合います。
豊田市美術館|クリムト『オイゲニア・プリマフェージの肖像』
「豊穣」というタイトルのこの話が、私の一番のお気に入りです。後ほど詳しくご紹介します。
長野県立美術館|東山魁夷『白馬の森』
「聖夜」は、登山が趣味の父親と、その影響で山を愛するようになった息子・誠也の話です。
冬山への登山が、誠也の命を奪ってしまいます。
個人的には涙なしには読めなかった物語です。後ほど詳しくお話しします。
地中美術館|モネ『睡蓮』シリーズ5点
仕事での失敗と病気を経験した女性の物語。
直島にある地中美術館は、建物自体が地中に埋まっているという美術館。モネの睡蓮が特別な空間に展示されている場所です。
光と影が交差するような物語の空気感が、モネの筆致と重なります。
読み進めていると、「自分の一部みたいだな」と思える瞬間があるはずです。
まずはどの美術館、どの作品が気になるか、そこから選んで読み始めてみるのも楽しいかもしれません。
特に好きだった2つの物語

「豊穣」|ある出会いをきっかけに、夢に向かっていく女性の話
主人公の亜依は、小説家になるまで家に帰らないといいおばあちゃんと住んでいた家を出たものの、自分に言い訳をし続け、その夢に向き合っていないまま生活しています。
そのうちにおばあちゃんは自宅で独りで亡くなってしまい、亜依は、深夜にカップラーメンをすすりながらさくらレビューを書いてお金を稼いでいるような、淀んだ日々を送っていました。
そんな中、ある日、亜依のおばあちゃんに似ている女性、スガワラさんが隣の部屋に引っ越してきます。
スガワラさんは、良い意味でおせっかい。
「ごはん一緒に食べない?」などと言ってスガワラさんの自宅で一緒に夜ご飯を食べたり、頻繁に声を掛けたりして、亜依の生活に静かに関わっていきます。
おせっかいだけどなぜか嫌な気がしない亜依は、スガワラさんと過ごす中で、暮らしが少しずつ変わっていきます。
深夜まで起きることなく規則正しく寝起きし、少し離れた場所にあるおいしいパン屋さんにクロワッサンを買いに行って、朝コーヒーを淹れて1日がスタートする。
物語の冒頭に書かれている生活とは変わって規則正しい生活に変わっていく様子を読んで、読んでいる私まで背筋が伸びるような気持ちになりました。
そして、豊田市美術館に展示されているクリムトの絵が、亜依と、亡くなった亜依のおばあちゃんをつなげてくれます。
クリムトは私もとても好きな画家なので、これが題材になっていることが素直に嬉しかったです。
最終的に、亜依は自作小説を書きあげ、スガワラさんに読んでもらうことになるのですが、その達成感が読者にも伝わってきて、読み終えた後に「私も、やりたいことにちゃんと向き合おう」という気持ちになれました。
豊田市美術館が、行きたいリストに加わりました。
「聖夜」|一人息子を亡くした夫婦と、届いた手紙
「聖夜」は、登山が趣味の父親と、その影響で山を愛するようになった息子・誠也の話です。冬山への登山が、誠也の命を奪ってしまいます。
生前、母親は誠也に東山魁夷の『白馬の森』をプレゼントしていました。
家族でよく訪れた長野の別荘の景色によく似ていて、誠也はそれをとても気に入っていました。
その絵が、物語全体を静かに貫く一本の糸になっています。
登山の前日、家族3人で食卓を囲んでいたとき、誠也は「会わせたい人がいる」と、付き合っている女性の存在を打ち明けます。
帰ってきたら4人で長野の別荘に行って、長野県立美術館で『白馬の森』の前に立ちたい、と。
その夜の食卓の温かさを想像すると、胸が苦しくなります。
一人息子を失った両親の後悔は、きっと言葉にならないほど深いと思います。
それでも、息子への愛情は本物で、誠也の生きた時間も本物で。そのことが、余計に切なかったです。
誠也が亡くなって10年後のある日、墓前に、当時の彼女からの手紙が置かれていました。
ネタバレになるので詳しくは書けませんが、それがきっかけで、夫婦は、『白馬の森』を観に美術館へ向かいます。
当時の彼女の気持ちを想うと、胸が痛くなります。
それでも、自分なりに区切りをつけて前を向こうとしている。その行動に、素直に応援したくなりました。
女性にこそ読んでほしい理由

この本が女性に向いていると感じる理由が、いくつかあります。
まず、主人公がほぼ全員、何かを抱えた女性だということ。
就活がうまくいかない、夢を諦めかけている、仕事に失敗した、大切な人を失った——そのどれもが「絵空事」ではなく、自分や身近な誰かに重なる「傷」だと思います。
読んでいると、「この気持ち、わかるな」とどこかで感じる瞬間があるはずです。
次に、「立ち上がる」物語であること。
どの話も、主人公が傷つき、もがき、それでも一枚を軸に、ほんの少し前を向いていきます。
悩みを解決してくれる本ではないけれど、「また歩いていこう」という気持ちにさせてくれる本です。
そして、アートへの興味が深まること。
登場する絵はすべて実在し、日本にいながら実際に観に行けます。
美術館に行くことへのハードルが下がるし、「この絵を知っている」という感覚が、美術館での体験をより豊かにしてくれると思います。
日常の中に、少しだけ「知る喜び」を取り入れてみたいなと思っている方に、ぜひ手に取ってみてほしい一冊です。
読み終えたら、美術館に行きたくなった

私が実際に行ったことのある美術館は、6か所のうち大原美術館だけです。
でもこの本を読んでから、残りの5か所すべてが「行きたいリスト」に入りました。
特に行ってみたいのは豊田市美術館と、地中美術館。
豊田市美術館は「豊穣」の舞台として描かれた場所で、クリムトの絵が所蔵されています。
地中美術館は直島にあり、建物自体が地中に埋まっているという独特の空間。
モネの『睡蓮』の前で、どんな気持ちになるんだろうと想像するだけでわくわくします。
美術館の旅というのは、なんとなく「ついで」に行くことが多かったですが、この本を読んでから「絵のために、その場所へ行く」という旅の仕方をするようになりました。
目的の絵の前に立って、好きなだけ向き合えるような、そういう旅をこれからもたくさんしたいと思っています。
まとめ

原田マハさんの『〈あの絵〉のまえで』は、薄くて読みやすいのに、読み終えた後の余韻がとても長い短編集です。
- 6つの物語に、日本の実在する美術館の名画が登場する
- 傷ついた女性が絵と出会い、前を向いていくストーリー
- 1〜2時間で読み終えられるボリューム感
- 読み終えると、美術館に行きたくなる
- 特に「豊穣」と「聖夜」は、心に長く残る
「漠然とした閉塞感があるとき」「何かに行き詰まっているとき」
そんな気分のときに、そっと手に取ってみてほしい一冊です。
読み終えた後に、「よし、ちょっとだけ前に進んでみようかな」と思えたら、この本の役割は果たされているのだと思います。
絵は、言葉にならない気持ちを受け取ってくれます。
そして、物語は、その「受け取り方」を教えてくれます。ぜひ、読んでみてください。

