印象派の展覧会リストをめくっていくと、セザンヌの名前がたしかにあります。けれど実際に絵を並べてみると、モネやルノワールとはずいぶん違う顔つきをしている。
輪郭がくっきりして、色の重ね方も硬い。わたしも最初は、同じ「印象派」という言葉でくくっていいものか迷いました。
「この人も印象派だったの?」と思ったことがある方に、まず要点からお伝えします。
答えは「いいえ」です。今の美術史では、セザンヌは印象派ではなく、ポスト印象派に数えられています。
ポスト印象派の代表として挙げられるのは、セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホ・スーラの4人です。
ただし、まったくの他人でもありません。出発点は印象派の中にあり、実際に印象派展の記録にも名前が残っています。
その理由と、りんごの絵の見かたを、ここから一緒にたどっていきます。
でも、出発点は印象派の中にありました

セザンヌは、印象派ではなくポスト印象派に数えられる画家です。
とはいえ、出発点は印象派の中にありました。まずは、その記録から見ていきます。
第1回印象派展に、名を連ねていた
第1回印象派展は1874年4月15日から5月15日まで、写真家ナダールのアトリエで開かれました。
正式名称は「画家、彫刻家、版画家などによる共同出資会社の第1回展」。30名が合わせて165点を展示しています。
セザンヌはこの第1回展に3点を出品し、そのうち2点が『首吊りの家』(1873年)と『モデルヌ・オランピア』(1873〜74年)です。
でも、参加したのは2回だけ
印象派展は1874年から1886年のあいだに、合計8回開かれました。セザンヌが出品したのは、この第1回(1874年)と、1877年の第3回だけです。
第3回展では16点を出品しています。それ以降、セザンヌは一度も印象派展に姿を見せていません。
同じ印象派展に出ていても、絵で狙っていたものは画家ごとにばらばらでした。
ドガについては別の記事にまとめています。
それなのに、なぜ絵がこんなに違って見えるのか

印象派展にいたのに、なぜセザンヌの絵は仲間たちと違って見えるのでしょうか。
理由は、目指していたものそのものが少しずつずれていったからです。
印象派が追いかけたのは「見えた一瞬」
印象派の画家たちは、光や大気が刻一刻と変わっていく「見えた瞬間」を描こうとしました。輪郭よりも、光と色の移ろいを優先する描き方です。
この基本は、印象派とは?でもまとめています。
クロード・モネは、この「見えた一瞬」を追いかけた印象派の代表的な画家です。
セザンヌが欲しかったのは「崩れない形」
セザンヌ自身も、こう語っています。
私だって印象主義者だった。ピサロは私に強い影響を与えた。しかし私は印象主義を、美術館の芸術のように堅固で長続きするものにしたかったのだ。
印象主義を、堅固で長続きするものにしたい。わたしには、この一言がほとんど宣言のように聞こえます。
セザンヌが目指した方向が、ここによく表れています。
印象派が捉えようとした光の移ろいを、彼は形として組み立て直そうとしました。
それが崩れない形です。
だから「ポスト印象派」と呼ばれる
批評家ロジャー・フライが1906年にこの呼び名を使い始め、1910年にロンドンのグラフトン・ギャラリーで開いた展覧会「マネとポスト印象派」で広めました。
フライは、この言葉を「いちばん漠然としていて、何も決めつけない」呼び名として選んだと説明しています。
ポスト印象派の代表としては、セザンヌ・ゴーギャン・ゴッホ・スーラの4人が挙げられます。
色の鮮やかさは印象派から受け継ぎながら、幾何学的な形を強調する方向へ進みました。
セザンヌを印象派に連れてきた人、ピサロ

セザンヌを印象派の輪に引き入れたのは、カミーユ・ピサロでした。
1872年、ピサロの誘いでオワーズ河畔のポントワーズで一緒に制作しています。
セザンヌは、ピサロを「父なる神」と呼びました。
「われわれはみなピサロから出ている」と語り、長いあいだ自分をピサロの弟子だと称していました。
セザンヌが1872年の終わりから1874年まで住んだのは、オーヴェール=シュル=オワーズという町でした。
同じ1874年に、セザンヌは第1回印象派展に出品しています。
りんごの見かた|静物画の前で、どこを見ればいいか
ここからは、セザンヌの静物画をどう見ればいいか、具体的に見ていきます。
手がかりになるのは、『リンゴとオレンジ』という一枚です。
テーブルが少し傾いて見えるのは、わざと
わたしがこの手の静物画で気になるのは、果物そのものより、皿や布の傾きです。セザンヌは、絵の中のものを線遠近法どおりには描きませんでした。
構図として意味が通る大きさを優先し、全体の均衡のために洋梨が大きくなることもありました。
テーブルの線や器の傾きが、写真のように正確でなくても構わない。
それが、セザンヌの静物画の見かたの入り口です。
『リンゴとオレンジ』は、ここを見る
『リンゴとオレンジ』は、油彩・74×93cm・1899年ごろの作品で、オルセー美術館に所蔵されています。
パリのアトリエで描かれた、同じ静物のシリーズ6点のうちの一枚です。
この連作はどれも同じ陶器の皿と花模様の水差しを使い、17世紀フランドルの静物画を思わせる布が、奥行きを静かに閉じています。
りんごが腐るまで描いていた
セザンヌは初期から静物画を手がけ、なかでもりんごを好んで描いた画家です。
制作にあまりに時間をかけすぎて、りんごが腐ってしまい、下絵だけで終わることもありました。
認められるまでの、長い長い時間

セザンヌは1865年からサロン(官展)に出し続けましたが、ずっと落選が続きました。初入選は1882年、実に17年もあとのことです。
1895年11月には、画商アンブロワーズ・ヴォラールがパリのラフィット街の画廊で、セザンヌ初めての個展を開きました。
約150点のなかから、50点が選ばれて展示されています。
この個展への批評家の反応はおおむね否定的でした。それでも、ピサロだけは高く評価しました。
マティスとピカソが、ともに「セザンヌはわれわれみんなの父だ」と語ったと伝えられています。
20世紀の美術に大きな影響を与え、しばしば「近代絵画の父」と呼ばれる画家です。
セザンヌは1906年10月15日、屋外で制作中に嵐に遭って倒れました。低体温症から重い肺炎になり、同月22日、67歳で亡くなっています。
美術館でセザンヌに会ったら

セザンヌは、印象派展に名を連ねた画家でした。
でも心の中では、印象派の先へ、もっと崩れない形を求めて歩き続けていた人です。
セザンヌが描いたのは静物画だけではありません。
1880年代半ば以降は、サント=ヴィクトワール山を繰り返し描き、油彩30点以上・水彩45点以上を残しています。
『カード遊びをする人々』も、1890年から1895年にかけての5点の連作です。そのうち1点(60×73cm)は、ロンドンのコートールド美術研究所にあります。
次に美術館でセザンヌの絵に出会ったら、まずテーブルや器の線がどう傾いているか、そこに目を向けてみてください。
輪郭の硬さの奥に、彼が探していた「堅固さ」が見えてくるかもしれません。
印象派が追いかけた光を、セザンヌは自分の目で捉え直して、形として描き直していました。
そう思って眺めると、これからセザンヌを見る目が少し変わる気がしませんか。
ひとりで美術館へ行くきっかけを探している方は、ひとり美術館もあわせてどうぞ。
