ピカソ『青の時代』とは|1901年、親友の死で絵が青くなった3年

ピカソ「青い時代」 画家とその人生

ピカソと聞いて、まず何を思い浮かべますか?

わたしの頭に浮かぶのは、目や鼻がぐにゃりとずれた、あの奇抜な顔の絵でした。

でも、20代前半のピカソが描いていたのは、まったくちがう絵です。青一色の画面に、うつむいた人ばかり。笑っている人は、ほとんどいません。

その3年間が、のちに「青の時代」と呼ばれるようになりました。

天才と呼ばれる前の、まだ無名で貧しかったころのピカソです。

国立新美術館の「ピカソ meets ポール・スミス」展で、わたしはこの時代の絵を一枚だけ観ました。《男の肖像》という、ひげの男性がテーブルに腕を置いてこちらを向いている絵です。

受けとった印象は、ただ「寂しい」でした。

「ピカソって結局なにがすごいの?」と調べはじめると、最初にぶつかるのがこの言葉です。

まずは、それがいつの、どんな3年間だったのかから見ていきます。

「青の時代」とは、どの3年間のことか

複数の絵が飾ってある壁

20歳前後の、青一色の3年間

青の時代は、ピカソが1901年から1904年にかけて描いた一連の作品を指す呼び名です。

青の時代が始まった1901年、ピカソはまだ19歳でした。10月生まれなので、青の時代の大半は、20歳を過ぎてからにあたります。

画面は青と青緑を基調にした、ほぼ単色。ほかの色は、ときどき差す程度です。

描かれたのは、娼婦や物乞い、酔っぱらい、目の見えない人、母と子。ひとりきりの人物も多く、主題は孤独・貧困・絶望に集まっています。

こうして並べると、ずいぶん重い顔ぶれです。それでも青の時代の絵が冷たく見えないのは、色のせいだとわたしは思っています。

パリとバルセロナを行き来していた

この時期のピカソは、パリとバルセロナを何度も往復していました。

初めてパリを訪れたのは、1900年10月のこと。そこから1904年にパリのモンマルトルへ定住するまで、二つの街を行ったり来たりする生活が続きます。

なぜ、絵が青く沈んだのか

パレットと絵筆

親友カサヘマスの死

きっかけは、親友の死でした。

カルロス・カサヘマスは、バルセロナ出身の画家で詩人。ピカソとは1899年に出会い、すぐに親しくなりました。

1900年初めには一緒にアトリエを使い、同じ年の10月にはそろって初めてパリへ移り、同じ部屋で暮らしています。

そのカサヘマスが、ジェルメーヌというモデルに恋をします。でも思いは実らず、彼は深い抑うつに沈んでいきました。

1901年2月17日、パリのカフェでカサヘマスはジェルメーヌに向けて発砲します。弾は当たらず、そのあと彼は自らのこめかみを撃ち、その夜のうちに亡くなりました。

このとき、ピカソはその場にいませんでした。スペインにいて、パリに戻ったのは同じ年の5月です。ピカソは、亡き友のアトリエに住みました。

この友の死こそが青の時代の出発点だった、というのが今の一般的な見方です。

貧しさも重なっていた

沈んでいたのは、心だけではありません。ピカソ自身、この時期は経済的にかなり苦しい状態でした。

絵には、スペインの画家エル・グレコの影を見る人もいます。

引き伸ばされた身体と、陰鬱な色の面。青の時代の人物像と、どこか重なります。

友を失った悲しみと、その日の暮らしの不安。この二つが、同じ青に溶けています。

青の時代の代表作

《人生(ラ・ヴィ)》1903年

青の時代の最高傑作とされるのが、《人生(ラ・ヴィ)》です。1903年、ピカソが21歳のときの作品で、いまはアメリカのクリーヴランド美術館にあります。

画面は縦197センチ、横127センチほど。大人が見上げるくらいの大きさです。

面白いのは、画面左の男性です。はじめはピカソ自身の自画像として描かれ、あとからカサヘマスの顔に描き変えられました。1978年のX線調査で分かったことです。

カサヘマスがピカソの絵に登場するのは、これが最後です。さらにこの絵の下層からは、失われたと思われていた初期の大作《臨終》も見つかっています。

《老いたギター弾き》1903〜04年

青の時代で最もよく知られているのが、《老いたギター弾き》です。シカゴ美術館にある、板に油彩で描かれた一枚です。

バルセロナの路上で、ぼろをまとった老人が体を折り曲げ、ギターを弾いています。その姿が、悲しみをそのまま形にしたように見えます。

この絵も、X線と赤外線の調査で下層から別の構図が出てきました。中央に座る若い母親と、そばにひざまずく子どもの姿です。

《自画像(青の時代)》1901年

もう一枚、《自画像》を挙げておきます。1901年、ピカソが19〜20歳のころの作品で、パリのピカソ美術館にあります。

やせた顔に、大きな黒い外套。この年齢でこんな自画像を描くのか、と少し驚きます。

《盲人の食事》1903年

最後は、わたしにとって特別な一枚です。《盲人の食事》は1903年の秋にバルセロナで描かれ、いまはニューヨークのメトロポリタン美術館にあります。

やせ細った目の見えない男性が、質素な食事を前に座っています。ピカソは友人の詩人マックス・ジャコブへの手紙で、この絵をこう説明しました。

左手にパンを持ち、右手でワインの瓶に手を伸ばしています。テーブルには、空の鉢と白いナプキンも置かれています。

この絵は、原田マハさんの『常設展示室』に入っている「群青」という短編に出てきます。子どもが絵の前で、どんな印象を受けるかを聞かれる場面があります。

心に残っているのは、その答えでした。絵の中の男性に向かって、元気になってほしい、と。何の説明もなしに、まっすぐそう言うのです。

《男の肖像》に「寂しい」と思ったときのわたしも、同じ受けとり方をしていました。でも、人を元気づける絵として見ることもできます。

その見方があると知って、青の時代がぐっと近づきました。

読んだときの感想は、『常設展示室』のレビューに書いています。

日本で「青の時代」を見られる場所

美術館で絵を観ている人たち

青の時代の絵は、日本にもあります。代表作を1点ずつ持っている美術館が、二つあります。

一つは、神奈川・箱根のポーラ美術館。《海辺の母子像》という1902年の作品で、海岸で母親が幼子を胸に抱いて立つ構図です。

この絵は調査で、下層からフランスの日刊紙『ル・ジュルナル』1902年1月18日付が見つかりました。そのおかげで、制作がその日より後だと分かっています。

もう一つは、広島のひろしま美術館。《酒場の二人の女》という1902年の作品を所蔵しています。

どちらも常設で見られるとは限りません。展示は入れ替わるので、行く前に公式サイトで確認するのが安心です。

青の時代のずっとあと、ピカソは戦争を《ゲルニカ》という大きな絵にぶつけます。

その絵を軸にした原田マハさんの小説の話も、ブログにあります。

青の時代は、どう終わったのか

美術館で絵を観ている人々

転機は、1904年でした。ピカソはパリのモンマルトルにある集合アトリエ、通称「洗濯船」に住まいを定めます。

同じ年、ピカソはフェルナンド・オリヴィエと出会います。この出会いが、画風が変わっていく一因になったと指摘されています。

気持ちが上向くにつれて、絵の色も暖かくなっていきました。青が引き、赤やオレンジ、ピンクや土の色が増えていきます。

こうして始まるのが「バラ色の時代」(1904〜1906年)です。

サーカスの芸人や、アルルカンと呼ばれる道化師が主役になります。

代表作は《サルタンバンク(旅芸人)の一家》。1905年の作品で、ワシントン・ナショナル・ギャラリーにあります。

このあとピカソは、四角く砕いたような形で知られるキュビスムへ向かいます。青の時代とバラ色の時代は、その少し手前にあります。

キュビスムから先の、もっと難しそうに見える絵の話はこちらにまとめています。

まとめ

美術館で絵を観ている女性

青の時代は、天才と呼ばれる前のピカソが、友の死と貧しさで沈んでいた3年間でした。1901年から1904年、彼はまだ20代前半です。

その3年を知ってから、もう一度あの奇抜な絵を思い返してみてください。

奇抜さの奥に、うまくいかない時期をくぐった一人の人がいます。

《男の肖像》を「寂しい」とだけ思ったあのときとは、いまは少し違う受けとり方ができる気がします。

次に青の時代の絵に会えたら、そこでもう一度、ゆっくり立ち止まってみるつもりです。

この記事を書いた人

Lumiと申します。東京都在住・30代の会社員です。
読む・観る・出かける。週末に"教養"という彩りを添える時間を、ゆるく楽しんでいます。
原田マハさんの小説と、美術館と、旅とサウナが好きです。

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